対話は、技法ではない。
対話は、生き方そのものである。
対話に生きぬ者は、
他者を道具とみなし、
とりかえ可能な〈それ〉として関わる。
対話に生きる者は、
他者と共に生き、
かけがえのない〈なんじ〉として関わる。
わたしの中にあなたを見、
あなたの中にわたしを見る。
あなたが存在するから、
わたしが存在する。
わたしが存在するから、
あなたが存在する。
わたしたちは相互存在である。
わたしは、あなたとの関係において立ち現れ、
あなたは、わたしとの関係において立ち現れる。
生まれては消え、
消えては生まれる。
いまここの一点に、
わたしたちの〈いのち〉は存在する。
過去のすべてが現在に現れ、
未来のすべてが現在に現れる。
*
わたしとは、関係の総和である。
父と母の関係からわたしは生まれ、
ものに触れ、ものを見、ものを聞き、
世界と対峙しながら関係を育んできた。
何ひとつ欠けては、今のわたしは存在しない。
たとえ今のわたしに満足していなくとも、
これまでにわたしが出逢い、関わり、
触れてきたすべてのものがわたしをつくった。
地球誕生から四十六億年。
これまでのたったの一度も、
あなたという存在は現れ出なかった。
そして、これからの未来も、
あなたという存在は二度と現れ出ない。
この時代において、
この場所において、
たったひとりの、
唯一無二の存在があなたである。
そんなあなたとわたしが、
いまここで出逢う。
ただごとではない。
わたしは、あなたに関係しはじめ、
あなたは、わたしに関係しはじめる。
もはや出逢う前のわたしたちには戻れない。
関係が編み変わるのだ。
交わした言葉は、わたしの底に沈殿し、
わたしの内なる辞書を書き換えていく。
ひっそりと、でも、確かに。
*
対話とは、わたしが変わり続けること。
手持ちの意見を保留にして、括弧に入れる。
わたしの意見を目の前にそっと置いて、
ただただ眺める。
あなたも同じように、
あなたの意見を目の前にそっと置いて、
ただただ眺める。
意見の裏側に潜む、
声なき声に耳を澄ませる。
わたしの意見は「わたしのもの」ではなかった、
あなたの意見も「あなたのもの」ではなかった、
「わたしたちのもの」であった。
ひとつひとつの意見の底には、
それを支える〈何か〉があった。
理由、目的、信念、想定、想い、欲望・・・
これらは、すべて〈意味〉だ。
意見の裏側には必ず〈意味〉がある。
確信された〈意味〉は
わたしとあなたの間を流れる。
対話とは、〈意味〉の流れである。
〈意味〉の流通、交換、分有。
〈意味〉を分かち合えたなら、
わたしはわたしのまま、
あなたはあなたのまま、
わたしたちとなる。
無論、〈意味〉が誤解される時もあろう。
だがしかし、いやだからこそ、
新たな〈意味〉が生まれる。
*
対話の分岐点は、ここからだ。
ひとりひとりの意見と、
その裏側にある〈意味〉が共有された
その後にこそ、はじまる。
「みんな違って、みんないい」で留まるのか。
それとも、その先の茨の道に歩み出るのか。
その道は、時に険しく、時に困難だ。
互いの違いを認め合った上で、
なおも、納得できる共通解を見出そうとする
「共通了解への道」である。
道半ば、これまでの人生を
否定されている感覚に陥ることもあろう。
理解できない他者を目の前に、
途方に暮れる時もあろう。
だがしかし、
目の前の他者と共に生きていこうとする限り、
決して諦めてはいけない。
対話こそが、「共生の道」なのだから。
*
対話とは、小手先の技術ではない。
対話とは、全存在で他者と関わろうとする、
その姿勢と態度と、覚悟である。
わたしは、対話を信じる。
わたしは、対話に生きる。