About

古瀬ワークショップデザイン事務所について

古瀬ワークショップデザイン事務所は、ワークショップデザインとファシリテーターを行う個人事務所です。ジャンルは問いません。人が集い、出逢い、関わり合う場であれば、どんな場でも設計したいと思います。必要としてくださる方がいる限り、私は動きつづけます。基本の役割はワークショップデザインとファシリテーターですが、必要に応じて積極的に越境したいと考えています。ただし、自分の能力以上のことを無理やりに推し進めることはしません。身の丈を知り、自分の手に余ることがあれば、他の専門家と協働しながら進めていこうと思います。

Philosophy

大切にしたいこと

対話に生きる

対話とは、技法でなく、生き方そのものです。相手を取りかえ可能な〈それ〉と見なすのではなく、唯一無二な〈なんじ〉と見なす生き方、関わり方のこと。

相手を言い負かしてやろうとする議論でもありません。対話は、共生の道。共存の原理。お互いの意見をテーブルにそっと置いて、意見の背後に流れる〈意味〉に耳を澄ますこと。対話とは、〈意味〉の流れ、流通、交換、分有。相互理解と共通了解をめがけた〈意味〉の分かち合い。

対話とは、小手先の技術ではなく、全存在でもって他者と懸命に関わろうとする、その姿勢と態度と覚悟です。私は、対話を信じています。そして、対話に生きていきます。

*この想いを綴った詩「対話に生きる−Live On Dialogue−」はこちらから読めます。

関係に生きる

私たちは誰しも〈関係〉の中に生きています。父と母との〈関係〉から命を授かり、あらゆる人たちと出逢い、別れ、多様な〈関係〉によって、その命を育んできました。

〈関係〉を結ぶ相手は、決して人間だけではありません。この世に生まれて、はじめて空気をいっぱいに吸った時、私たちは空気と〈関係〉を結んだのでした。床を這うことで、床と〈関係〉を結び、ひらひら舞う蝶と出逢い、蝶と〈関係〉を結び、木陰で休ませてもらっては、木と〈関係〉を結び、あらゆる自然や生き物たちと〈関係〉を結び合いながら、生きてきたのです。

人間との関係、自然との関係、生き物との関係...でも、それだけでもありません。もう亡くなってしまった、おじいちゃんやおばあちゃんやご先祖様(あるいは人間以外の生き物も含めた)たくさんの死者たちとの〈関係〉の上に、私たちの命は成り立っています。とすると、私たちは、人間や自然や生き物や死者とのあらゆる〈関係〉によって、ここまで生き長らえてきた、と言えるでしょう。

つまり、〈関係〉の総体こそが「私」なのです。「私」という存在は「個体的な生命体」でありつつ、「関係的な生命体」でもある。だからこそ、他者を敬い、自然を敬い、生き物を敬い、死者を敬うこと。それは同時に、「私」をも敬うことにつながります。

あらゆる問題を「個人」に還元させず、〈関係〉を見ていく。どのような〈関係〉が問題を生じさせているのか。いかなる〈関係〉が問題を解消させていくのか。その〈関係〉に目を向ける。私は、関係に生きる、ということを大切にしていきます。

Vision

実現したいこと

対話の文化をつくる

私が目指していることは「対話の文化をつくる」ということです。それは一人ひとりの声なき声を聴き合う文化であり、真に出逢い、真に関わり合り、真に交感し合う文化です。

どんな一言にも、その中にはその人自身とその人へと受け継がれた歴史と文化が詰まっています。放たれた言葉の裏側に潜む〈意味〉に触れようと努力すること。時には勘違いもしながら、それでも〈意味〉の共有を繰り返し続けること。それが「対話」という生き方なのだと考えています。

とは言え、本音をなんでも言い合いましょう、ということではありません。言葉のない対話、沈黙の対話、というものもあるでしょう。必要な時に、必要な場面で、必要な対話ができれば、それで十分なのです。

一人ひとりの〈自由〉が
のびのび発露される世界へ

「対話の文化をつくる」その先に、私が見ている風景は、一人ひとりの〈自由〉がのびのび発露される世界です。

私たちは、どうしても〈自由〉に生きたい、という気持ちを常に既に持ってしまっているように思えます。たとえ「自由に生きたくない」という人がいたとしても、そう考えうる〈自由〉、そう願いうる〈自由〉、生きたいように生きたい〈自由〉があることは否定できません。それだけ〈自由〉という概念は、広範囲に及びます。

しかし、誰もが好き勝手したい放題にしたら、社会はどうなってしまうでしょうか。たちまち社会は立ち行かなくなってしまうでしょう。なぜならば、ほかでもない、他者が存在するからです。

私が〈自由〉を求めるのと同じように、他者もまた〈自由〉を求めているのです。それゆえ、私の「したい」が、他者の「したい」を阻害してしまうことも十分に起こりうるし、その逆も起こりえます。とすると、どうやってお互いの「生きたいように生きたい」という〈自由〉を実現させていけるのでしょうか。

その鍵こそが、「対話」なのではないか、と私は考えています。私の「生きたいように生きたい」と、あなたの「生きたいように生きたい」を調整していく営み、折り合いをつけていく営み、共に生きる道を見つけていく営み、それこそが「対話」にほかなりません。

つまり、一人ひとりの〈自由〉がのびのび発露される世界に向かうためにも、「対話」という営みが必要不可欠になるでしょう。

全ての〈存在〉が、
その〈存在〉を
全うできる世界へ

「のびのび発露される世界」は、決して人間だけのものではありません。人間以外の動物も、植物も、昆虫も、土も、石も、全ての〈存在〉が、その〈存在〉を最後まで全うできたらいいな、と考えています。

動物だったら、その動物の、石だったら、その石の、その固有の〈存在〉が、よりよく発露されるような仕方で、かつ、そのものがよりそのものになっていくような仕方で、それぞれの〈存在〉の〈いのち〉を全うしてほしい、と強く願っています。

生物であれ、無生物であれ、それぞれの〈存在〉がよりよく発露されるには、適切な配置や組み合わせがあるように思います。そもそも、自然界には善も悪もありません。単に、よい組み合わせと、悪い組み合わせがあるだけです。

だからこそ、それぞれの〈存在〉の性質をより深く理解し、その〈存在〉が生き生きと発露できる場所や配置や出逢い方を整えていくこと、これが大切になっていくでしょう。そのためにも、人間以外のあらゆる〈存在〉に対しても、私は「対話の態度と眼差し」を向けていきたいと思います。