昨日(2015年3月25日)は、劇団アマヤドリの三部作「悪と自由」のシリーズvol.3の『悪い冗談』を観てきた。
あえて、感想を一言で表すならば、
“人間”をみた。
という感じだ。
おぞましき“人間”を。
かなしき“人間”を。
誰もが隠し持っている“人間”の悪を。
“人間”の奥底に蠢く悪の塊を。
「裸の時間」とでもいうべきものを露出させたい・・・
主宰の広田さんがそう綴ったことの意味が、
少しわかった気がする。
目の前で、僕ら観察者は「悪」をみたのだ。
そう、僕らは「悪」を目撃した。
死んでしまうかもしれないとわかっていながらも、
「実験だから・・・」
「全責任を取ってくれるから・・・」
「アルバイト(お金)のためだから・・・」
と、自分を納得させるための理由を並べて、
他者に罰を与え続ける人間。
服従から逃れられない人間。
ダメだとわかっていながらもやめられない人間の「悪」
妹を殺された女が、終身刑の男と面会しているシーンで、
女は、「更生とか、謝罪とか、そういうのは一切求めてない」
「ただ、ただ、あなたを殺したい」と、言う。
ダメだとわかっていながらも「殺したい」と思ってしまう女。
「あなたが望むなら、殺されてもいい」と男性は言うが、
そうはさせてくれない法律。保護される加害者と人権。
自由を奪われ、囚われの身である男性は、鉄の檻の中にいるが、
消したくても消せない過去から自由になれない女も、また、囚われの身である。
彼女を取り巻く見えない鉄の檻が、
僕の中で、ふと見えたような気がした。
その後、彼女は見ず知らずの
「花火を見ながらの花見グループ」に混ざっていく。
わいわい、がやがやと、盛り上がる一方でも、
彼女のB面(裏面)では、しっかりと「悪」は存在する。
そう、しっかりと、ひっそりと、だまって、潜伏している。
終身刑の男性が劇中の「始まり」から「終わり」まで、
ずっと、可視化(顕在化)されていたように・・・
花火を楽しく見る人もいれば、
東京大空襲や関東大震災での火を思い起こす者も一方ではいる。
彼氏の転勤をきっかけに別れ話になりそうなカップルもいる。
同時に展開される複数の「時空」を目の当たりにすることで、
「ああ、物事には、B面(裏面)があるんだな・・・」
「誰の中にも“悪”は存在しているのだな・・・」
ということに気づかされる。
それは、正直、見たくもないことだ。
それは、正直、言われたくもないことだ。
でも、今回は、それを曝け出した。
舞台上に露出させた。
そして、僕らは、それを目撃したのである。
劇の「始まり」から「終わり」まで走り続けた男性が
立ち止まり、ベンチに座り、こう言う。
「きっと、人間は(ダメだとわかっていながら)戦争は続ける・・・」
「きっと、人間は(ダメだとわかっていながら)障がい者を差別し続ける・・・」
「きっと、人間は(ダメだとわかっていながら)◯◯を続ける・・・」
「これからも・・・」
結局、自分と自分の大切な人だけが良ければいい。
そうやって、これからも、人間は生きていくのだ。
そうなようなことを言い切った。
そう。言い切った。
そして、最後、その終身刑の男は、檻から出てくる。
ゆっくりと。のっぺりと。そして、立ち止まる。
少し猫背気味のその“人間”のシルエットが、
妙に、おぞましくて、恐ろしくて、僕は、思わず、震えた。
もし、人間が被食者になったら、こんな気持ちなのだろうか・・・
きっと、それは「獲物として喰われるかもしれない」
という恐れだったかもしれない。
そして、その男の姿から、前のシーンで「僕は、そういう動物です!!!」
と力強く言い切った台詞が、ふと蘇った。
人間は、誰しも「悪」を隠し持っている。
それは、言い過ぎだろうか?
きっと、厳密に答えようとすれば、
「悪」の定義にもよるから、正確には何とも言えなくなるけど、
でも、きっと、おそらく、「悪」らしきものは、
誰しも持っているんじゃないかなと、僕は思っている。
でも、そんなことを言い切ると、
「私は、そんなもの隠し持っていない」という反論をもらうかもしれない。
でも、あえて、言うなれば、
「それは、無自覚、無意識なだけではなくて?」と。
無自覚、無意識の「悪」ほど恐ろしいものはない。
だけど、自覚している「悪」も恐ろしい。
そう、どちらも、恐ろしい。
それが、人間である。
その人間の恐ろしさを抱えながらでも、
そこから出発しなければいけない。
恐ろしき“人間”
おぞましき“人間”
そんな“かなしき人間”を認めた上で、
そこから歩み始めなければいけない。
男が牢獄から出てきたシーンは、
恐れる一方で、僕の目にはそう映った。
『僕は、そんな“人間”を諦めたくない。』
僕は、そう思いました。