伊集院もと子さん主宰の「COoMOoNO」の演劇『-かさない-』を観てきた。
(画像出典:COoMOoNO-かさない-: 「からだでアート/小角まや」)
若者が、当たり前に、戦争に行かされる社会。
戦争に行った若い男と、その男の帰りを待つ女・・・の話。
大きすぎて、壮大すぎて、とてもじゃないけど、
一人だけでは、到底、扱いきれないようなテーマ。
だけど、そのテーマを、“日常生活の視線から捉える”
という試みがされている演劇だと感じた。
特に、僕にとって、面白いと思えたのは、
その“日常生活における些細なコミュニケーションのあれこれ”である。
マンションの上の階に住む足音のうるさい女性とのトラブル。
やけに親切(そう)で、お節介の度合いが少し強めの隣人との会話。
愛する男を失った女と戦地からの帰りを待つ女との会話。
誕生日の日に、友人らで鍋をつつきながらする、些細な会話。
そう。きっと、普段は、そうそう、まじまじ、見つめたり、覗いたりしない、
普段の人間関係のやり取りの現場を、僕は“目撃”したのです。
客観的に眺めることで、気づけることがある。
例えば、こんなふうに、だ。
「この隣人の“お節介っぷり”は凄いな・・・。しかも、言葉の節々に、なんだか、“押しつけ”と“断定”を感じて、ちょっと、疲れちゃう。あ!いま、隣人の話し相手(主人公)は、一瞬、嫌がった(気がした)ぞ。あ!でも、その嫌がったことに、隣人は、どうやら、気づいていないみたいだ・・・。どうして、気づけないのだろうか・・・」
他人と他人のコミュニケーションの現場を、客観的に、まじまじ、と鑑賞する。
そうすることで、やっと、僕らは、はじめて、気づけるのかもしれない。
きっと、僕自身、いざ、コミュニケーションの当事者になると、
時には、この「隣人」と化す可能性が、十分にあり得るのだ。
(ま、そもそも、「お節介な隣人」が悪いわけでもないのだけど・・・)
ただ、あくまでも、どれも、僕が捉えた“解釈”にすぎない。
僕には「そう見えた」というだけで、それが事実であるはずもない。
だからこそ、コミュニケーションは、難しい。
私と他者の間に顕在化された「言葉」だけが、真実ではない。
「言葉」が「その気持ち」を適切に表現しているかなんて、正直、怪しい。
満面の笑みで「大丈夫だよ」と言った裏に、いったい、何があるのか。
「あ、ごめん・・・」の中にある・・・“何か”。
演劇では、そういう些細な情報を、演者が「言葉」「話し方」「身体動作」・・・
いや、そこにある「小道具」や「衣装」などの物も、全てを通して、
おそらく、表現しているのだろう。
だから、「対話」をテーマにしている、僕にとっては、
「演劇」は、「気づきと解釈のトレーニングの場」なのだと思った。
そして、最後に・・・
この「COoMOoNO」のコンセプトを読んでみてほしい。
僕にとっては、心から共感できるものだった。
なぜなら、僕自身も、「対話(ダイアローグ)」というものを通して、
“日常の中の繊細なことに気づける人が増えている世界”を夢見ているのだから。