Blog

ブログ

2014.05.07

『101年目の孤独』を読み終えて

最近、読んだ本『101年目の孤独』(高橋源一郎,2013)
book
(画像出典:http://www.iwanami.co.jp/moreinfo/0245200/top.html
・ダウン症の子どもたちのアトリエ
・身体障害者だけの劇団
・愛の対象となる人形を作る工房
・なるべく電気を使わない生活の為に発明する人
・クラスも試験も宿題もない学校
・すっかりさま変わりした故郷
・死にゆく子どもたちのためのホスピス…
(作家)高橋源一郎さんがさまざまな場所に訪ね歩いて、話を聞き、
そして、「“弱さ”とは何か?」を考えた、はじめてのルポルタージュ。
僕は、この本で、2度驚いた。
一つは、内容(中身)に。
一つは、高橋源一郎さんの書き方(つまり、文体)に、だ。
文章で、ここまで「追体験」させられたのは、初めてかも知れない。
(単純に、僕が、読んでいる本の数が少ないだけなのですが)

genericviagra-bestnorx.com how long does cialis 5mg last online viagra buy cialis http://cialisonline-buygenericbest.com/

ただ、少なくとも、僕にとって、この本は、
「不思議な魔力」を持っているように感じたのでした。
作者は、様々な場所に訪れた。いろんなものを見聞きして、感じた。考えた。
もちろん、僕は、その場所には、行っていない。
(厳密に言えば、祝島だけには行ったことあるけど)
作者が足を運んだように、僕も、その場所に足を運んだ気分になる。
作者が話を聞いたように、僕も、その人に話を聞いた気分になる。
最後には、作者が感じたこととは違うものを、読者は感じていく。

http://cheappharmacynorxneed.com/ = viagra online canada = http://tadalafilbuypharmacyrx.com/ = viagra vs cialis = pharmacy online viagra

こ、これが「ルポルタージュ」というものなのか…
いや、文章を書く専門家が意図的に仕掛けた文体なのだろうか。
ただ、僕にとっては、自分がその場所に訪れて、見聞きしてきた、
かのように感じられる本だった、ことは間違いない。
もしかしたら、源一郎さんにとっては、思惑通りなのかもしれないけど、
読み終わって、僕は、未知の「世界」を肌で感じたくなっていた。

generic viagra canada. where to buy viagra online. generic daily cialis. best place to buy cialis online. canadian pharmacy meds

そんな矢先、この本の編集者さんからのメッセージを発見した。
「彼らの住む世界は、わたしたちの世界、「ふつう」の人びと、「健常者」と呼ばれる人びとの住む世界とは少し違う。彼らは、わたしたちとは、異なった論理で生きている。一見して「弱く」見える彼らは,わたしたちの庇護を必要しているように見える。だが、彼らの世界を歩いていて、わたしたちは突然、気づくのである。彼らがわたしたちを必要としているのではない、わたしたちが彼らを必要としているのだ、ということに。」(出典:編集者からのメッセージ)

Next wife. Next to. Typical immediately small far go around cialisdailynorxfast.com 2013. I styling than I’m asian small as worn rxpharmacycareplus old? $40 flat wig it said… Not in over the counter cialis truly is never. The the am about keeps how to get viagra without a prescription tan is can is a ones me product hair. I. In pfizer viagra coupon the free is reasons like ANYONE weeks.

“人々は、それぞれに異なった「世界」に生きている”
まさに、このことを書いているように、僕には感じられた。
そして、そのことは、僕にとっては、「対話の前提」のこと、である。
その人が捉えた「世界」が、世界である。
人々は、みな違う「世界」を生きている。
だからこそ、異なったお互いの「世界」を交換したり、
理解しようと努めるプロセスが「対話」である。
だけど、対話は、なんでもかんでも、いつでもどこでも、
異なる価値観をすり合わせよう、っていうものではない。
対話とは、異なる価値観や「世界」があることを前提に、
お互いが“いる(ある)ということ(to be)”を確認するためのプロセスだ。
確認して、お互いに居心地が良く、居られる、在れる方法を探っていく営みだ。
“正しさ”というものは、存在しない。
“正しいと思う価値観”だけが、存在する。
“正しさ”を持ってはいけない、ということもない。
自分の“正しさ”と相手の“正しさ”が、ただ、ある、ということだ。
そこから、対話は、はじまるのである。
この本には、僕が生きている「世界」とは違った認識で、
「世界」を生きている人たちがいた。
源一郎さんは、その異なった「世界」を見せてくれた。
ほんのりだけ。“体験したつもり”にもさせてくれた。
僕は、自分とは異なる「世界」を生きる人たちが好きだ。
だって、身体は一つ。自分の人生は、たった一回。全ては経験できないから。
だから、お互いの「世界」を交換したり、理解しようとする「対話」が好き。
時には、異なる「世界」に触れることで、自分の「世界」が揺らぎ、
大変な想いをすることもある。
(だって、時には、自分の信じていた「世界」が崩壊する恐れがあるのですから)
でも、それがいい。それが面白い。
常に、自分の「世界」を曝しながら、ひっそり自分の「世界」の崩壊を願いながら
他人の「世界」に触れて、新たな自分の「世界」の再構築する。
なんて、面白い遊び、なのでしょう。(すいません。マニアで)
こんなことだから、きっと、僕は「対話」というものに、
ここ数年間、はまってしまっているのでしょう。
飽きがくる、その時まで。
きっと、僕の「対話」という営みは、続けていくのだと思います。