最近、読んだ本『101年目の孤独』(高橋源一郎,2013)
(画像出典:http://www.iwanami.co.jp/moreinfo/0245200/top.html)
・ダウン症の子どもたちのアトリエ
・身体障害者だけの劇団
・愛の対象となる人形を作る工房
・なるべく電気を使わない生活の為に発明する人
・クラスも試験も宿題もない学校
・すっかりさま変わりした故郷
・死にゆく子どもたちのためのホスピス…
(作家)高橋源一郎さんがさまざまな場所に訪ね歩いて、話を聞き、
そして、「“弱さ”とは何か?」を考えた、はじめてのルポルタージュ。
僕は、この本で、2度驚いた。
一つは、内容(中身)に。
一つは、高橋源一郎さんの書き方(つまり、文体)に、だ。
文章で、ここまで「追体験」させられたのは、初めてかも知れない。
(単純に、僕が、読んでいる本の数が少ないだけなのですが)
ただ、少なくとも、僕にとって、この本は、
「不思議な魔力」を持っているように感じたのでした。
作者は、様々な場所に訪れた。いろんなものを見聞きして、感じた。考えた。
もちろん、僕は、その場所には、行っていない。
(厳密に言えば、祝島だけには行ったことあるけど)
作者が足を運んだように、僕も、その場所に足を運んだ気分になる。
作者が話を聞いたように、僕も、その人に話を聞いた気分になる。
最後には、作者が感じたこととは違うものを、読者は感じていく。
こ、これが「ルポルタージュ」というものなのか…
いや、文章を書く専門家が意図的に仕掛けた文体なのだろうか。
ただ、僕にとっては、自分がその場所に訪れて、見聞きしてきた、
かのように感じられる本だった、ことは間違いない。
もしかしたら、源一郎さんにとっては、思惑通りなのかもしれないけど、
読み終わって、僕は、未知の「世界」を肌で感じたくなっていた。
そんな矢先、この本の編集者さんからのメッセージを発見した。
「彼らの住む世界は、わたしたちの世界、「ふつう」の人びと、「健常者」と呼ばれる人びとの住む世界とは少し違う。彼らは、わたしたちとは、異なった論理で生きている。一見して「弱く」見える彼らは,わたしたちの庇護を必要しているように見える。だが、彼らの世界を歩いていて、わたしたちは突然、気づくのである。彼らがわたしたちを必要としているのではない、わたしたちが彼らを必要としているのだ、ということに。」(出典:編集者からのメッセージ)
“人々は、それぞれに異なった「世界」に生きている”
まさに、このことを書いているように、僕には感じられた。
そして、そのことは、僕にとっては、「対話の前提」のこと、である。
その人が捉えた「世界」が、世界である。
人々は、みな違う「世界」を生きている。
だからこそ、異なったお互いの「世界」を交換したり、
理解しようと努めるプロセスが「対話」である。
だけど、対話は、なんでもかんでも、いつでもどこでも、
異なる価値観をすり合わせよう、っていうものではない。
対話とは、異なる価値観や「世界」があることを前提に、
お互いが“いる(ある)ということ(to be)”を確認するためのプロセスだ。
確認して、お互いに居心地が良く、居られる、在れる方法を探っていく営みだ。
“正しさ”というものは、存在しない。
“正しいと思う価値観”だけが、存在する。
“正しさ”を持ってはいけない、ということもない。
自分の“正しさ”と相手の“正しさ”が、ただ、ある、ということだ。
そこから、対話は、はじまるのである。
この本には、僕が生きている「世界」とは違った認識で、
「世界」を生きている人たちがいた。
源一郎さんは、その異なった「世界」を見せてくれた。
ほんのりだけ。“体験したつもり”にもさせてくれた。
僕は、自分とは異なる「世界」を生きる人たちが好きだ。
だって、身体は一つ。自分の人生は、たった一回。全ては経験できないから。
だから、お互いの「世界」を交換したり、理解しようとする「対話」が好き。
時には、異なる「世界」に触れることで、自分の「世界」が揺らぎ、
大変な想いをすることもある。
(だって、時には、自分の信じていた「世界」が崩壊する恐れがあるのですから)
でも、それがいい。それが面白い。
常に、自分の「世界」を曝しながら、ひっそり自分の「世界」の崩壊を願いながら
他人の「世界」に触れて、新たな自分の「世界」の再構築する。
なんて、面白い遊び、なのでしょう。(すいません。マニアで)
こんなことだから、きっと、僕は「対話」というものに、
ここ数年間、はまってしまっているのでしょう。
飽きがくる、その時まで。
きっと、僕の「対話」という営みは、続けていくのだと思います。