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2018.06.20

【レポート】西田哲学をみんなで学び合う会(第1回)

◉ NO勉でも気軽に参加できる「大人の協働型自主学習室」
2018年6月18日(月)、いま住んでいる地元(鎌倉市稲村ガ崎)でちょっと変わった形式の勉強会『西田哲学をみんなで学び合う会(第1回)』を「Think Space鎌倉」で開催しました。

私としては鎌倉での初イベント。人が集まるかな、、、とすごい不安でしたが、そんな不安とは裏腹に告知開始一日で定員に達したのでした。(本当に有難い限りです)
当日の参加者は(主宰者の私も含め)全員で18名。(一部のみ:9名、二部のみ:4名、通し参加:5名)

参加者は、コーチングの方から、海外で博士号を取られて西田哲学を研究されていた方、西田哲学に関心を持っているカナダ出身の方、セラピスト、アメリカ人のプロテスタントの牧師さん、ライター、経営コンサルタント、建築家、禅(Zen)やマインドフルネスを取り込んだ事業をされている方、ヨガや瞑想や人類学に精通されている方、Transactional Analysis(交流分析)を海外に学びに行っているファシリテーター、英文学の研究をしている大学院生など・・・
一言では語れない人ばかりが集まっていました。

一人一言ずつのチェックインが終わると、続いて「Study Time」。これは、各自の自由な自主学習時間。時間は30分程。それぞれに西田哲学について学習したい資料を持ち込んでもらい、自分の好きなところで、まずは一人勉強をします。(もちろん事前学習もありですが、NO勉で参加できるのも一つの特徴です)

自主学習後は「まとめの時間」(10分程)。「今の時間で自分が学んだこと」や「ここにいるメンバーに共有したいこと」をA4白紙に簡単にまとめていきます。そして、次の「学びのシェア&探究」の時間(80分程)へと向かいました。

円になって、基本は、特に順番は決めずに、言いたい人から。(ただし、第一部は、かつて西田哲学を研究していた方がいらっしゃったので、その方から口火を切っていただきました)
それぞれが共有したいことを共有し、それに対して何か言いたいことがあったら言い、聞きたいことがあったら聞き、自由に進めていきました。


◉ 物自身になって物を見る
ちなみに、第一部で私が共有したことの一つは、以下の「(私にとって印象的だった)西田の言葉」と「その(自分なりの)図」でした。


右側の細い字は、その後のやり取り中のメモ。この図に対して、参加者の一人からこんなフィードバックをもらったのでした。
「その図を見て、文化人類学のフィールドワークの感覚に似ているなと思いました。例えば、人類学者はある民族を外から捉えるのではなくて、その民族の内部に入り込んで共に暮らし生きる。そして、内側から描くことが民族誌であり、エスノグラフィーです」
自分の吐き出したものが他の視点(他の意味体系)で語られる、新しい理解が広がる感触。もちろん、それぞれの共有はあくまでも西田哲学の断片に過ぎないのですが(もっと言えば、その断片のその人なりの解釈に過ぎないわけですが…)それはそれで構わないのだと思います。
私たちは西田哲学の研究者ではないし、単なる一般者であり、一読者。きっと誤読も多いでしょう。きっと誤解も多いでしょう。でも、たとえ自分の理解が勘違いだったとしても、私たちは結局はそれぞれの意味体系(意味の場)の中に生きるわけですから、自分が捉えたそれが今の自分にとって必要な意味を成しうるならば、それはそれで良いのかもしれません。
そして、間違いに気づいたら、その都度、潔く修正すればいいのですから。


◉ 「上から下へ」ではなく「下から上へ」
実際に、第一部では、今まさに理解しつつある自分の理解が「いや、これは間違っていた!」と二転三転して、更新されていく体験をしました。
それは、西田の「場所の論理」について。(まさに、理解の変更の履歴の一部が私のメモ帳に残っています。最初に書かれていたのは、青字だけ。後に赤字で修正が加わっていきます)

まず最初に「私(個物)」がある。そして、その「私(個物)」“から”降りていく(または、広がった)先に「私たち」がある。「私たち」の範囲は「家族」や「国」様々な広さがあり、どんどん遡っていくと「地球」「宇宙」と広がり、最終的には無限に広がっていく規定すらできない「絶対無の場所」にたどり着く。
つまり、一番上の「私」は固定的で境界線がはっきりしている。下に行けば行くほど、流動的で境界の曖昧な世界となる。自他が溶け合う世界。相反する矛盾するものが同時に存在する世界。
「私」を起点に下へと降りていく。その中で「私」が拡張されていくイメージ。そこには「下に向かっていく矢印」がある。上から下へ
まずはじめに、こういう理解がありました。
しかし、ある方の発表を聞いて、そうではなかった、と私はその理解を更新しはじめます。その方によると「私を起点に下に降りていくような矢印の流れは西洋的な発想ではないか」と言うわけです。
そして、続けます。「今日もらった(以下の)資料にも描いてあった通り、東洋的・日本的な発想は私が起点ではなく、絶対無の場所から上に向かっている」と。
確かに、そうでした。わかりやすいと思って私自身が配布した資料(以下の図)にはそのように描かれていたのでした。

ああ、なるほどー!となって、私の赤ペンはグニャグニャっと走ります。「上から下へ」向かう矢印を修正して、「下から上へ」向かう赤線が追加されました。

(↑青字の「上から下へ」の矢印を消して、赤字の「下から上へ」の矢印を追加)
そして、この「絶対無の場所」から私を形成している流れ(矢印)そのものを知ること、悟ることが、西田のいうところの「自覚」ということではなかろうか、との理解に至ります。
これが、更新後の第二の理解でした。


◉ “〜から”ではなく、同時的である
しかし、ここからさらに、その理解が覆されていきます。
私と同様に、参加者の一人のアメリカ人の牧師さんも「from wholeness (全体性[絶対無の場所]“から”)」という理解でお話されていましたが、その後、かつて西田哲学を研究されていた方から「いや、どちらが先ということではないんです。“〜から”ではなく、同時的なんです」との説明がなされ、途中から英語に切り替え、懸命にご説明してくださったのでした。
その時、私自身もハッ!と気づかされたのでした。
確かに、西田は「一即多」とか「多即一」とか言っている。「即」というのは「=(イコール)」のことだから「一(個)であり、多(全体)である」と。そして、同時にそれは「多(全体)であり、一(個)である」と。
つまりは、「絶対無の場所」“から”「私」が立ち上がる、というような「矢印(動き)」ではなく、「個(部分)と全体」というのは、まさに、同時的だったわけです。
(ただ、もし仮に矢印で表現するならば、両方の矢印[ベクトル]が同時に成り立つような状態。お互いがお互いを規定し合いながら、「逆限定」し合うような関係が描けるかもしれません)
これは私にとっては驚きの発見でした。今まさに理解しつつある理解が二転三転する体験。とても貴重な体験でした。この場面は、私にとって第一部のハイライトだった、と言っても良いのかもしれません。


◉ 「現在」の内に「過去」も「未来」も現れる
さて、説明が長くなってしまいました。続いて、第二部へと参ります。
ここでもたくさんの学びや発見がありましたが、第二部でも私なりに図式化したのが二つあるので、その二つをご紹介します。(どうやら私は図で理解したい人みたいです…)
一つ目は、西田における「時間」の概念。

西田は「時間」についてこんなことを言っています。
「歴史的現在といふのは直線的なものが円環的といふことである。過去は過ぎ去ったものでありながら未だ過ぎ去らない、未来は未だ来らざるものながら既に現れて居る、過去と未来が現在に於て同時存在的といふことである」(全集,第8巻)
つまり、「現在」の内に「過去」も「未来」も立ち現れるということ。そして、それは「円環」している。
例えば、「過去」に失敗した出来事があったとする。そして、「現在」も引き続き、うまくいっていない。すると、「過去」への意味づけは「ああ、やっぱり、あのせいで、今もうまくいかないのだ」と悪いものになる。一方で、「現在」がうまくいきだす。すると、「過去」への意味づけは「そうか、あの失敗は必要な学びだったのだ」と良い意味づけに変わることがある。
何が変わったのか。「現在」から「過去」への向けての「まなざし」が変わったのである。このように「過去」とはいつでも「現在」から顧みられ、再び「現在」に返ってくるものでもある。
続いて、「未来」の話に移ろう。例えば、「ああしたいな。こうなったらいいな」という想いを「未来」に馳せる。すると、その「未来」に向かっての理想や願いを実現させようと、再び「現在」の元に帰還してくる。そして、「現在」の私自身を突き動かすことがある。
つまり、時間は一直線のものではない。「現在」も「過去」も「未来」も同時的に成立しているものであり、円環的なものである。
(ただし、もちろん時間の概念はそう簡単にはおさまるものではないので、引き続き、時間の探究は続けていけたらと思います)


◉ 「自覚に於ける直観と反省」の図(初案)
さて、最後に、二つ目の図。これは「自覚に於ける直感と反省」の図。

西田哲学において「自覚」という概念はとても重要なキーワードですが、それはこんな風に説明されています。
「直観というのは、主客の未だ分れない、知るものと知られるものと一つである、現実その儘な、不断信仰の意識である。反省というのは、この進行の外に立って、翻って之を見た意識である。‥‥‥余は我々にこの二つのものの内面的関係を明にするものじゃ我々の自覚であると思う」(「自覚に於ける直観と反省」)
この文章からすると、「自覚」はどうやら「直観」と「反省」というものが関係していることがわかります。「直観」は、主客の未だ分れない状態なので「主客未分」の状態。言い換えるならば、まだ言葉では説明できないような状況。「直観」なのだから、説明できない。なんとなく「これだ!」という時は、たいていは言葉にはできないものです。
しかし、ちょっと時間が立って、その直観した〈何か〉がわかってくることもあります。その時は「内から」ではなく、主客は分化され「外から」それを眺めていることによって理解していく、というわけです。
そして、西田は続けます。その「直観」と「反省」の二つの内面的関係を明かにするものが「自覚」だ、と。(ここが個人的には超難解…)この文章から分かることは、ともかく「自覚」とは「直観」だけではない。「反省」だけでもない。「直観」と「反省」が同時に展開され、両者が内面的に関係を結ぶ時に起こりうる現象である、ということ。つまりは、「直観(内)」と「反省(外)」の「あいだ」における感覚のことが「自覚」なのだと考えることができます。(で、これがまた捉えがたい…)
ただ、自分の文脈に引きつけて考えると、ちょっとだけわかるような気もします。なぜならば、〈何か〉を「直観」しつつも、同時にそれを外から「反省」しつつ、その場に必要な〈何か〉を働きかけていく行為そのものが「ファシリテーション」であるから。つまり、西田哲学の「自覚」概念は、きっと場づくりをしているファシリテーターにも役立つのだと思いました。
(でも、この部分はまだまだ理解不十分なので、今後の課題と勉強の楽しみにしていきたいと思います)


◉ 最後に・・・
さて、ずっと私の目線からレポートを書き綴ってみましたが、これでも私の体験したもののほんの一部分に過ぎません。そして、もちろん当日参加された方々も、それぞれに全く異なった経験をしていたのだろうと思います。
それは当然のことで、私たちは〈何か〉新しいことを理解しようとする時には、まず一旦は私の中にある「意味体系の中」でキャッチせざるを得ず、捉えられるものだけを都合よく引き集めてしまう傾向があるように感じます。
でも、それでも、キャッチされたもの(たとえ勘違いだとしても)が加わることで、自分の中にあった「意味体系」のネットワークや配列は少しでも変わるわけですから、そうやって私たちは、常に自分自身をアップデート(更新)をしながら生きているのだと思います。
ですから、そのような意味で、今回、参加された方々にとって、今の自分にとって必要だと思われる〈何か〉がキャッチされていたことを心から願います。
もちろん現時点で「〇〇をキャッチできた!得られた!」という明確な自覚がなくとも、聞いてしまった意見や言葉や音は、必ずや身体(細胞)にも響いているはずなので、後になって、じわじわと気づきや学びに復元されるのかもしれませんし、いつか発酵されるのかもしれません。(もし、この会に参加して、何か自分にとっての新しい意味ある発見があったのならば、是非またそれを教えてもらえると幸いです!)
最後にはなりますが、ご参加してくださった皆さん、本当にありがとうございました。
また、今回ご参加できなかったけど、ご興味を持ってくださっている皆さん、次回も開催しますので、その時にお会いできることを楽しみにしております。